夜中にふと目が覚めたとき、隣の部屋から聞こえてきた麻美のあえぎ声が、昼のあいだじゅう鼓膜にまとわりついている。押し殺そうとしても漏れてしまったその声は、静寂を小さく引き裂いて、闇のなかにいつまでもこだました。聞かないようにしようと思えば思うほど、それは耳の奥にこびりついた。
翌日からあたしは、できるだけ遅く帰るようにした。
顔をあわせたくない、麻美にも、あの男にも。
四日目の夜遅く、ようやく家に帰ると、鍵は開いていて、あたしは音をたてずにそっと靴を脱いだ。
リビングに続くドアから細くオレンジ色の光が漏れている。
突然、麻美のするどい声がした。男がなにかしゃべったが聞き取れない。そして沈黙。あたしは息を殺して、そこに立っているのがやっとだった。ようやく男が低く何か話す。麻美が叫ぶ。なにかが割れる音。足音。
ぱっと目の前が白くひらけた。リビングのドアがあいて、麻美が立っている。涙でにじんだマスカラ。目があったつぎの瞬間、むこうからそらした。目の前を毅然《きぜん》と横切って、やがて奥のドアがバタンと閉まった。
翌朝、思いきってバスルームのドアを開けると、もう出かけたと思っていた麻美がそこにいた。笑顔をつくろうとしたがこわばるのが自分でわかる。立ち聞きしてしまったことを、謝ったほうがいいのだろうか。「おはよう。あの、きのうは遅くなって……」
「ああ、もう行かなくちゃ」腕時計をかざして、麻美はさえぎった。白いスカートのすそがひるがえる。
それからの数日、麻美はいつもどおりに明るく楽しげで、けれど、すべすべだった頬は荒れて、小さな顔のなかであごだけがとがっているのをあたしは見逃さなかった。小さな肩が寒そうで、頼りない。
男が帰る日が近づいていた。
その夜あたしが家に入ると、それまで聞こえていた深刻な話し声がぴたりとやんだ。リビングの真ん中に立っている麻美は、背を向けていて表情は見えない。ソファに深くすわった男は、目が合うとワイングラスを上げてにこっとした。
あたしは憮然《ぶぜん》としてふたりを見つめ、自分だけが疎外されていることに子どもじみたいらだちを感じながら同時にそれをくだらないと思い、ますますいらついた。あたしが子どもで、何も気づかないし何も感じていないなんて思ったら大間違いだ。
「なんか変ね」沈黙を破って、あたしはいった。「どうしたの?」
「なにかって、なに?」麻美はゆっくりふり返った。
「……あたしにはわかんない」声がふるえた。「さっぱりわかんない」のどが引きつって、小さな悲鳴になった。
「ばかね」麻美はあきれたように微笑んでみせ、あたしの肩を抱いた。その腕を思い切りはらうと、あたしは麻美をじっと見た。麻美はあたしの失望を、裏切られた気持ちを、少しはわかったほうがいい。むらむらと残酷な気持ちがこみあげてくる。
本木さんは麻美がいっていたようにステキでもなんでもない、ただの疲れたおじさんだ。麻美の生活は理想的でも美しくもない。ウソばっかりだ。みんなウソだ。もう信じられない。言葉にはできずに、ただにらみつけていた。
「あらら、こわい」麻美は笑おうとして少しひきつり、それから真顔になった。「席をはずしてもらえる?」有無をいわせない声だった。「果歩ちゃんには関係ないわ」そういい放つと、細いシルエットは視界のはしに消えた。